ヨハネの黙示
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私は深夜、入り組んだ路地を歩いていた。秋風が薄手のコートを揺らし、私は他に人通りのない道を店の明かりを求めて首を巡らせた。今では二十四時間営業の店など珍しくもないのに、古い店の立ち並ぶこの通りには、夜中でも煌々と通りを照らすコンビニエンスストアなどは一軒もなかった。通り沿いの店はすべてシャッターを下ろしていて、私は本当にこんな場所、こんな時間に営業している店があるのか段々と不安になってきた。しかし胸に抱え込んだものをまた持ち帰ることもできず、どんどん狭くなっていく道を右に曲がり、左に曲がった。
すると突き当たりにようやく店の明かりが見えて、私はほっと歩みを緩めた。前面はすべてガラス窓の店で、左側にはカウンターが、そして右側にはピアノと、二階へと上る螺旋階段が見えた。私は店の看板を見て、ネット上で紹介してもらった店が本当にあったことに軽い安堵感と、同じくらいの不気味さを感じた。
店の看板には「流華堂」――りゅうかどう――と書かれていた。ガラス窓越しに中を覗き込むと、カウンターの前に体格の良い男が一人座っていた。長い足をもてあまし気味に組んでいる男は、黒いレザーパンツを履き、深緑色の綿の長袖シャツを着ていた。ネットで教わった店主の容貌とは似ても似つかない。どうやら先客らしいということに気付いて、私はまた引き返そうかという考えに囚われた。しかし胸に抱えた“モノ”がドクリと脈打ったのを感じて、これまでの恐怖が一時の羞恥心など吹き飛ばしてしまった。私は路地の暗闇と抱えた荷物から逃れたい一心で店の中へ飛び込んだ。
扉に付けられたベルがガランという音をたて、その騒がしさにカウンターに腰掛けていた男が振り返った。鋭い瞳に私は蛇に睨まれた蛙になった。男は窓越しに見た印象と変わりなく、モデルのように整った体をしていた。だが目の鋭さがどうにも堅気の人間に見えなかった。私は気詰まりなこの空気を打破してくれる人を――それはここの店主に他ならない――探した。しかしカウンターの奥にも、ピアノの前にも店主の姿は見当たらなかった。早くも途方に暮れた私を憐れんだのか、カウンターに座っている男が店の奥へ呼びかけた。
「おい、客だ」
それはまるで私が会社から帰ってすぐに妻に呼びかける調子そっくりだった。「おい、帰ったぞ」と。妻の名前は決して“おい”ではないし、勿論ここの店主だってそうだろう。それでも妻が玄関へ出迎えに来るのと同じく、ここの店主もあまりに不正確なその呼びかけに応じて、奥から姿を現した。
「申し訳ありません、気付かないで。いらっしゃいませ」
店主はネットでの情報通り、着物を着た二十歳前後の青年だった。最も帯は幅広の女物で、体の線が細いので年若い女性に見えなくもなかった。
「ヨ、ヨハネに紹介されて来ました」
私はネット上で知り合った人物のハンドルネームを告げた。すると店主は私がどういう客なのか分かったようで、喫茶店のようなカウンターと逆にある、もっと簡素な背の低いカウンターへと私を促した。店主は私に椅子を勧めると、カウンター越しに私の正面に座った。
「ヨハネから連絡がきています。人形を売りたいというお客様ですね?」
「は、はい」
私はようやく胸に抱いていた風呂敷包みを手放すことができた。
「拝見します」
そう言うと、店主はカウンターに置いた風呂敷包みを解き、中のものを取り出した。私は思わず目を逸らす。それはもう目にしたくないほど怖いものだった。
「あぁ……これは良い品ですね。とても愛らしい」
店主はそう言って人形を持ち上げ、あらゆる角度から眺め始めた。
「1888年作のテートジュモーですね。瞳もガラス、オリジナルですし、お顔も綺麗です。……でも洋服はオリジナルではありませんね。右手の指に欠損があるようですし」
その点は他の店でも指摘されていたことだが、私は正直慌てた。もう頼れるのはこの店しか残っていないと分かっていたからだ。
「買い取っていただけないのですか?」
引き攣った声で言った私に、店主はにこりと笑みを返した。
「いいえ、完品のものよりは値が下がりますが、人形本体はオリジナルで状態でも良い方ですから、お客様がよろしいのであればお引取りいたしますよ」
引き取ってもらえるのならタダでも構わないくらいなのだ。しかし、私がわざわざインターネットでこの店を探し出したのには訳がある。
「……あの、実は他の店でも何度か引き取っていただいたのです。でも、次の日にはどうしてか自宅に戻ってきて……。ゴミに捨てても同じことが起きるのです。あまりに怖くて妻も倒れてしまいました。ヨハネが、ここならもうそんな心配はしなくていいからと……」
「えぇ、それならご心配なく。人形はきちんとお預かり致しますよ。でもお客様、この人形はただ貴公のお家に戻ってくるだけでしたか?」
「えっ?」
私は全身の汗腺から汗が一気に噴出したのを感じた。夜の路地裏の店。奇妙な店主。私はやはり何か別の世界に紛れ込んでしまったのではないだろうか。
「何か他に、動いたり、喋ったりしませんでしたか?」
「に、人形ですよ。そんなこと……」
視線を泳がせて私は額の汗を拭った。どこから見ても不自然な私の答えにしかし、店主の青年はそれ以上追及せずあっさりと引き下がった。そう、青年が何かを知っているはずはないのだ。私はこの人形を売りに来た。この店に初めて訪れて、そしてもう二度と訪れることのない客なのだから。
「そうですね。それでは料金のお話を」
そう言って店主が出した買取りの料金は、他の店と比べても十万以上高い数値だった。それにヨハネの紹介の通り、店主は私の素性を全く問わず、面倒な書類も一切書かされなかった。そして人形の料金はその場で支払われて、私は風呂敷にそのお金を大切に包んだ。
「本当に、もう二度と戻ってはきませんよね。その人形……」
「えぇ。でもお客様、夜の道は危ないですから。お気を付けて……」
そう言って店の外まで見送ってくれた店主の腕の中には、私が売った人形がじっと私を見詰めていた。人形の陶器製の顔に劣らぬくらい白い店主の顔。そして漆黒の闇に溶けそうな黒の着物と、毒々しい血のような赤い帯。
「おやすみなさい」
店主はそう言って人形に頬を寄せて、嫣然と微笑むと店の中へと消えていった。私はその後姿に言えようもない魅力を感じた。思わず店主を追いかけそうになったが、カウンターに座っていた長身の男の突き刺すような目に会って、急に店主が青年であるという事実に気付いた私は顔を赤くしながら身を翻した。
とにかく、もう二度とあの人形には会いたくない。母の大切にしていた人形。何度売っても家に戻ってきては家を徘徊し、夢の中で母の声を発し、妻の首を締め付け、私の足を引っ張る人形。ヒステリー気味の妻に訴えられて母の首を絞め、床下に埋めたあの暗くうすら寒い記憶。
人形を売った金を使って、どこか別の所へ引っ越そう。そして慰謝料でも何でも払って、あの恐ろしい妻とも別れてしまおう。幸い私達の間に子どもはいない。これからいくらでも新しい生活を手にすることができるのだ。もう姑となる私の母はいない。そして今度こそは私の言いなりになる妻を手に入れるのだ。これまでのことは間違いだった。私は、妻の尻に敷かれっぱなしの男でも、人を殺すような男でもないのだから。
青年は店の窓越しに、路地の闇に消えていく男を見詰めていた。いや、正確には男の足に縋り付いている老女の姿を。薄手のコートの中は灰色のスーツ。額の広い、中年太りとはっきり分かる腹をした気の弱そうな男は、やがて老女を引き摺ったまま闇の中へ消えていった。
ほう、と溜息をついて、青年は買い取った人形を抱えたままカウンターへ向かった。そこには先程からコーヒーを飲んでいる長身の男が座っていて、男は青年に自分の隣の席を勧めるように椅子を引き寄せた。青年は素直に男の指す席に座って、もう一度溜息をついた。
「あんたが骨董品の買い取りをしているとは知らなかったが、それとも趣味か? 修理屋」
着物姿の、性別のはっきりとしないような修理屋には、アンティーク人形を抱える姿も妙にしっくりきてしまう。そういう趣味です、と言われても嫌悪感を覚えることはないだろう、と思った壊し屋のことなど知らず、修理屋は桜色の唇に人差し指を当てて小首を傾げた。
「まぁ、趣味のようなものですね。壊し屋さんは上がったことがないので知らないのでしょうが、あの螺旋階段を上がったところには骨董品が置いてあります。うちは骨董品店でもあるのですよ」
修理屋の白い手が指した先には、木製の螺旋階段が上へと伸びている。壊し屋は確かにあそこから上に上がったことは一度もなかった。
「プライベートルームの開かずの扉はそこに繋がっているのか?」
喫茶のためのカウンターの後ろにある階段からは、修理屋のプライベートルームへ行くことができる。壊し屋が入り浸る時間もそこが一番多いのだ。そのプライベートルームには、鍵穴のない扉が一つ付いていた。壊し屋としては、特に興味もないので放っておいたのだが。
「開かずの扉? あぁ、鍵は確かにかけてありますが、開きますよ。あれはとても面白い仕掛けで、あの扉自体骨董品ですね」
その扉が気に入っている様子の修理屋を見て、壊し屋は扉に興味を持たなかったことに安堵していた。興味を持っていたら勿論壊してしまっていただろうから。
それにしても、と壊し屋は修理屋の抱えている人形をひょいと取り上げて言った。
「……妙な客だったな。ヨハネというのは誰だ?」
「壊し屋さんもご存知なのではないでしょうか。僕は走査屋さんとお呼びしていますが?」
人形の瞳を見つめながら、壊し屋は片手でロスマンズ・ロイヤルという銘柄の煙草を取り出した。通常の煙草よりも長細いそれを口に咥えると、修理屋はそれを見てカウンターに置いてあったマッチを擦って壊し屋の煙草に火を点けた。
「走査屋……ね。あいつと知り合いか」
煙を吐きながら壊し屋が言った。修理屋は椅子から降りるとカウンターを回って灰皿を取り出した。
「インターネット上だけのお付き合いですが」
「あんたが流華で、それであいつがヨハネ」
壊し屋が指摘すると、修理屋は“我が意を得たり”と微笑んだ。そして灰皿をカウンターに滑らすと同時に、壊し屋から人形を取り返した。
「そうです。ヨハネの紹介はいつも素敵な品との出会いですよ。この娘もとても愛らしいですし、いいお品です。手の欠損は僕が修理しますから、またすぐに買い手が見つかりますよ」
人形を持ち上げて嬉しそうに微笑む修理屋の顔を見ながら、壊し屋は煙草の灰を落とした。そして声を潜めて呟いた。
「あいつに見る力があるとは思えないな。祓い屋の嬢ちゃんも絡んでいる、か」
修理屋は壊し屋が何か呟いたことには気付いたようだったが、その内容までは聞こえなかったらしい。首を傾げる修理屋に、壊し屋は普通の声音で言った。
「しかし、あんな金を払うことはなかったんじゃないか? 依頼人は金を使える状態ではないし、あの男はどうせ死ぬだろうからな」
足に依頼人である老婆の霊を引き摺って、ほっとしたように去って行った鈍感な男。自分が依頼人だと思って、そして霊が人形から離れられないと思っていたのだから、幸せなものだ。本当の依頼人はあの老婆。大切にしていた人形を修理屋に託し、これでもう心残りなく息子への復讐が果たせるのだ。
「何を仰います、商売は誠実に行わなくては。あの値段は手の修復代を差し引いても妥当なものでしたし、依頼人はお望みどおり人形から引き離して差し上げました。ついでに言うのならあの男性のお望みも叶えたので、人形はもう彼に付いていくことはありませんよ」
そう、人形は、だ。人形だけはここに残り、ただの人形として修復され、買い手が見つかれば買われて行くだろう。そして老婆は息子を連れて行く。結構なことだ、と壊し屋は思う。
本当は、あの男が正直にすべてを打ち明ければ、修理屋はあの老婆と男の関係を“修復”してやるつもりだったのだろう。壊し屋としては、あそこで延々と男が打ち明け話をしないで良かったと思う。修理屋は相変わらずの鈍感ぶりを発揮していて、あの男の訪問に壊し屋が苛立っていたことには全く気付いていないようだった。
「それにしても、壊し屋さんが睨むのであの男の方が怖がっておいででした。残念ながら招き猫にはなりそうにありませんね、壊し屋さんは」
睨んでいたことには気付いていても、何故睨むのかは考えないのだろうか。
「招き猫なんて、いても効果はないだろうさ。今日の客はあの婆さんだけだ。さっさと店を閉めて、少しは俺を構ってくれよ、流華」
カウンター越しに手を伸ばして修理屋の顎を掬うと、修理屋は擽ったそうに笑ってその手から逃れた。
「ここにおいでになる回数が増えて、僕は心配ですよ、壊し屋さん。ご自分の仕事は大丈夫なのですか?」
「今は昼間の仕事だ。それに、あんたよりは賢い商売をしているぜ、俺は」
その答えに少し憮然とすると、修理屋は作業のためのカウンターの方へ歩いて、買った人形を奥にしまいに行った。その間に壊し屋はまだ残っていた煙草を灰皿に押し付け、席から立って、勝手に店仕舞いを始めた。戻ってきた修理屋は、通り沿いの窓のブラインドを下ろす壊し屋の後姿を呆れたように見詰め、仕方なしと店の明かりを落とした。
ブラインドを下ろし終えてカウンターを越えてきた壊し屋に、修理屋はほう、と溜息をついた。
「それでは、もし流華堂が立ち行かなくなかったら、僕は壊し屋さんの愛人になることにします」
冗談でそう言った修理屋に、壊し屋は上半身を少し屈め、修理屋の耳元で何事か囁いた。そしてその言葉と同時に後ろに回された壊し屋の手が、修理屋の着物の赤い帯を弄ぶ。修理屋はくすくすと笑いながら、幽霊のように壊し屋の手から逃れると、脇をすり抜けて二階へ上っていった。
この日の朝刊に人形を売った男性の交通事故死の記事が載っていたが、朝には営業を終えて就寝していた修理屋は、夜にヨハネからのメールを見るまでそのことを知らずにいた。壊し屋は朝刊を読みはしたが、写真も載らないその記事のことは軽く読み流しただけだった。